本を紹介し、近代文学・現代文学・海外文学の感想を書きます。雑感も書きます。

海の中で息をして

近代文学、現代文学、海外文学の感想を書くブログ

もので自分を飾る人は大したことない

高いものを身につけても、凄い人にはなれない。もので自分を飾っても、自分は変わらない。

 

ブランド品を身につけて、自分に自信がつく。自分の存在が大きくなった気になる。物を持つだけで自分が大きくなる。それは、それだけ元が小さな人だから。基本的な能力が低いから、装飾品で能力がアップをした気分になる。

 

武器を使う前に、腕力をつけたほうがいい。

オシャレする前に、痩せたほうがいい。

 

腕力をつけてから武器を持てば、武器に頼らなくて良くなる。よりいい武器を使いこなせる。

痩せれば、オシャレが映える。オシャレが意味を成す。

 

自分を飾る手段として、ものに頼る人は大した人じゃない。

努力で自分を飾る人が魅力的な人だ。自分の身の丈に合った努力をした後に、やっと、ものを利用できる。ものを自分のものにできる。

 

僕にはもっと学ぶことがある。読む本がある。高いものを買っても、僕は何も変わらない。

500円ちょっとの本が、僕を変える。

1万円の教科書が、僕をより強くする。

村上春樹『風の歌を聴け』

村上春樹氏の処女作。そう聞いたら、知らずに読んだ人は納得するだろう。「確かにこれは処女作だ。」

 

本屋さんに立ち寄り、立ち止まってスマホで検索する。村上春樹 おすすめ。手軽に読めて、かつ確固として文学な小説を読みたい。黄色地に赤色のペンで書かれたポップに唆されて買うと、当たり外れがある。当たりだけを引きたい、外したくない気分だった。その割に検索結果の上の方のレビューを適当に読んで、適当に決めた。いつか読もう、と思っていた本だった。

 

この物語に登場出来る人と、出来ない人がいる。登場出来る人は、ウィットに富んだ、ユーモアの溢れた、深みのある、エスプリの効いた、人だけだ。知識に裏打ちされた会話は機転が利いていて、話してる本人も話されている相手も楽しいだろう。現実でもこれほど面白い人とはなかなか出会えない。

 

多彩な情景描写というよりは、知的に楽しい会話が印象的だった。何か大きなものが残った感じはない。愛とか勇気とか、そういう大きい何かは得られない。もっと微かな、風に吹かれては飛んでしまいそうなものなら、得ようとすれば得られそうだ。

 

村上春樹作品全体がここから始まっているんだ。テンポや描写から実感できる。他の作品を読んだ人は、なるほどな、と感じると思う。僕が今まで読んだものは、確かに村上春樹氏の作品だった。

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

 

村上龍『イン ザ・ミソスープ』

村上龍の作品の中で、過去に「コインロッカー・ベイビーズ」と「限りなく透明に近いブルー」を読んだことがあった。突拍子の無さが現実と絡み合う心地よさ。グロテスクな表現と衝撃的なセックスが印象深かった。現実感の無いぶっ飛んだセックスを読みたい気分だったので、本作品を手に取った。

 

ぶっ飛んだセックスを楽しみに読んだ僕は、殴られた。怖かった。人は理屈の分からないものに対して恐怖を感じる。まだ見えてない部分、この蓋を外した中には何が詰まっているのだろう。どんなことが起きるのだろう。途中、ホラー小説を読む気分で読んでいた。恐怖の対象がオバケとか幽霊とかいう非現実ではなく、歌舞伎町にセックスをしに来た外国人なんだから、恐怖の方向性は大きく違っていたが。

 

読み終わって全てを理解できる構成は、さながらサスペンスであり、推理小説であった。しかし、情報量の多さ、伝えたいことの奥深さは計り知れない。

 

提起される問題は現代的だ。個性、自分らしさ。右倣えをするばかりで、君は本当に君と言えるのだろうか。そう問いかけている気がする。

 

しかし、問いかけるだけではない。悪い点に目が行きがちな私たちに、良い点を教えてくれる。良心的であり、それ故、一切の判断は私たちに委ねられている。

 

この本は、私を右倣えから左に向かせたい訳では無いと思う。立ち止まって。そう言っている気がする。右や左を見る前に、その地点にいることを確認する。ここはどんな所なのか、理解する。そういうことを促していると思う。

 

立ち止まる。コンパスは北を赤く照らす。

 

 

イン ザ・ミソスープ (幻冬舎文庫)

イン ザ・ミソスープ (幻冬舎文庫)

 

 




僕は選択を愛してる

友人とご飯を食べるとき、「中華はどう?」「とんかつは?」「洋食屋は?」なんて聞くことがある。いいねと言われてご飯を食べる。「ラーメンは昨日食べたからなー」と言われると、ラーメン以外の物を提案する。

 

僕はどうしてもこれが食べたい!って日でなければ、いくつか提案したもののどれになっても満足だし、どれでも僕の選んだものだ。友人は、適当な、いいねでもなんでも返事をして、僕の選んだ中から自分で選ぶ。

 

選択だ。僕は選択を愛している。自分のことは自分で決めたい。だから、自分のことは自分で決めて欲しい、と他人に対しても思う。2人の間のことでも、問題の中心がある人が自ら決めるべきだ。

 

選択は苦労だ。勇気がいる。心を使う。ご飯を決めるのも、何かを始めるのも、変えるのも、終えるのも、選択であり、勇気である。

 

その選択を、勇気を、心を僕は愛してる。何かを選び取るその行為そのものにまとわりつき、内包するものは、純粋で、その人自身を表している。

 

だから、選んで欲しい。何かを肯定し、何かを否定して欲しい。あなたを表して欲しい。選択を他人に任せないで欲しい。人に任せた選択はあなたではないから。

 

 

モリエール『人間ぎらい』

戯曲には、喜劇と悲劇があるらしい。一般的には『人間ぎらい」は喜劇らしい。あとがきによると、喜劇を悲劇にまで掘り下げた作品らしい。

 

主人公のアルセストは、正義を貫く者である。事の正しさ、自分の気持ちを重んじ、他人の気持ちを顧みない。自分の気持ちに素直な青年。そういう印象を受ける。不平等、不条理に怒り、断固として立ち向かう。

 

この作品は、喜劇らしい。何が「喜」なのか。自分の意見を曲げずに正義を盾に社会に立ち向かう、無謀さ、思慮の浅さ。それが「喜」らしい。

 

どうやら僕はアルセストらしい。彼に共感できて仕方がない。アルセストが周りの人間を嫌いになる。怒る。当然ではないのか。腐った司法。権力、多勢に従うつまらない者。嫌いになって何が悪いのだ。それを喜劇だとする1600年代のフランスの多勢の姿が伺える。

 

太宰治走れメロス』は誰もが知る文章だ。この作品は、セリヌンティウスのために走るメロスを笑い飛ばす。橋を壊し、山賊を送る。疲労回復の清水は細菌塗れ。暴君ディオニス王に、物語は味方する。

 

僕の中で、この作品は悲劇だ。女を愛してしまった故に、素直な正義感の強い青年は物語から虐げられる、悲しい物語だ。

 

『人間ぎらい』という作品名につられて読んだが、僕と同じように人間ぎらいな人は読んでみると良い。主人公以外の人間を見事に嫌いになれる。

 

文章が古く、手紙の文面などはさながら古典であった。訳の工夫ではあると思うが、中々に読みづらかったので、購入の際には新潮文庫(内藤 濯訳)以外の訳本も検討すると良いと思う。

 

人間ぎらい (新潮文庫)

人間ぎらい (新潮文庫)

 

 

 

スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』村上春樹訳

村上春樹ノルウェイの森』を読んだ時から、いつか読もうと思っていた。だから、「一ページとしてつまらないページはなかった。」そう刷り込まれて読んだ感想に過ぎない。

 

全てのページを素晴らしく感じる人は、全てのページを一度読んだ人だ。景色の意味、登場人物の繋がり、役割を理解してから読むと、どのページも素晴らしい。そう思える。

 

正直、読み終わるまでは、どの文も深みに溢れていることしか分からなかった。反射する水面に手を差し入れると、冷たい。差し入れるにつれ、手、腕、頭、足が空気の温かみを失う。冷たさの中、深く深く進む。伸ばした指先が底に触れる。それは、気づく瞬間だ。底面の美しさ、光差す水の輝き、青さに。

 

大切なのは結果ではない、それまでの努力だ。たまにそんなことを聞く。僕は、それまで、が何よりも大切だと思う。「今」は「それまで」の結果と努力からなる。「今」に「これから」を乗せるのではなく、「それまで」に「今」を乗せていきたい。

 

多数の「それまで」を持ち、「今」に「これから」を乗せ続ける。それがギャツビーではないか。「それまで」が形を持って現れたとき、「今」を乗せたいと思う。それは、当然のことだ。彼は理に従う。

 

この小説は村上春樹氏の訳であり、村上春樹氏の文章で書かれている。あとがきにもあるように、翻訳の正しさよりも、村上氏の考える「グレート・ギャツビー」が小説家として表現されている。1920年が舞台の小説とは思えない文の読みやすさ、リズムで、読者を引き込む。他者の訳本や原文を読むことで、村上氏の理解を理解することが出来るであろう。

 

 

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

 

 

勉強の形を想像する

最近、勉強をしていると単語が頭にスッと入ってくる感覚がある。勉強はあまり気が進まないが、頭にスッと入ってくる感覚は楽しい。

 

近いと思う感覚は、本棚に本を並べる感覚だ。特に、本の間にピッタリ差し込むときの感覚。楽しい、気持ちいい、スッキリした気持ちになる。

 

勉強の形を想像してみる。勉強は本棚の組み立てから始める。新しく本棚を組み立てる。本棚に仕切りを作る。本にタイトルをつける。仕切りで分けられた区画に本を並べる。そして、タイトルに合った内容を本に書き込んでいく。

 

本棚は章、チャプター、分野、などの包括的なくくり。区画は単語の大まかな性質。本のタイトルは単語。内容は単語の意味。人や単語によっては、本棚が単語になる場合もあるだろう。こういう風に対応させると、分かりやすい。

 

山積みの本。区分けされていない本棚。巻数、順序が揃ってない本。バラバラで、どこに何があるかわからない。読みづらい。

 

 

つまり、枠組みを作ってから勉強するといい、という話だ。

 

枠組みを作ると、同じ枠の中に何が入っているかを覚えられる。内容の繋がりが分かる。小さな枠組みの中でなら内容が少なく、整理もしやすい。右から順に並べながら勉強すると、抜けがない。

 

気付くまでは、ただ勉強していた。本にタイトルをつけ、書き込み、本を放っていた。タイトルのない本に書き込んでいた。大きい本棚に適当に本を並べていた。タイトルを見つけ本を拾い上げても中身がなかったり、同じタイトルの本が2冊あったりした。

 

本棚を作る。本にタイトルを書く。本を並べる。本の内容を増やす。これが勉強だと思う。

 

内容の詰まった本が綺麗に並ぶ本棚。そんな勉強の形をイメージしながら勉強していこうと思う。