僕は「あけましておめでとう」と何を祝っているのか
あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。
初日の出は見なかった。今日は日の目すら見た気がしない。去年はわざわざ海に行って誰ともなく他愛もない歓声をあげたというのに。
実家で母の作った雑煮を食べた。小松菜をしょうゆとダシで煮て餅を入れ、かつお節をのせただけの関東風。シンプルなものだ。ここ数年、おせち料理は栗きんとん、数の子、紅白のかまぼこぐらいだった。皿にドンと乗った黄色い栗が愛らしかった。今年は餅しか無いらしい。正月をあまり祝わなくなってしまった。
昔、正月に祖母の家に帰ると、立派なおせちを食べた。五穀豊穣、健康長寿、子宝なんかの縁起物が重箱にギッシリと詰まっていた。そんなイメージだ。農家でも既婚でもない僕には健康長寿のエビくらいしか縁起がない。味が特別美味しい訳でもないおせち。有り難さはあまり感じられなかった。
正月は祝うものだし、何となく盛り上がる。ツイッターにあけましておめでとうと呟く。何となくおせちを食べる。正月番組を見て時間を潰す。三が日が終わる。友人に「いや〜寝正月だったよ〜」とか言う。これが理想的な正月の過ごし方だろう。
こんな空洞のあけましておめでとうにも、縁起を知らないおせちにも、元旦だけ朝日を拝むのも、意味がある。1年の始まりを舌で、鼻で、耳で、目で、肌で感じる。去年の正月を思い出す。今との違いを何となく感じる。それでいい。
1年の経過と1年の始まりを五感と脳で感じること。正月の盛り上がりはこの為に必要なことだ。
あけましておめでとう。何度言っても新年を祝っている実感が湧かない。きっと僕は何も祝ってない。でも、言葉を発する、それ自体が意味を持つ。
あけましておめでとうございます。
アントニオ・タブッキ『遠い水平線』
スピノザは、イベリア系のユダヤ人で、目のなかに、遠い水平線をもっていた。われわれが動くと、水平線も動く。だから、水平線とは、幾何学的な表現だ。私の登場人物も、なにかの魔法で、水平線に到達してくれたことをこころから祈っている。彼もまた、遠い水平線を目のなかにもつ人間だったから。
こんな文が帯に載っていたら読まない訳にはいかない。然るべきタイミングでレジに並んだ。
スピーノは死体置場の番人をしていた。謎の多い事件によって運ばれた不思議な死体に興味を持ち、各地へ足を運ぶ。というあらすじだ。
物語として、最後に大きな山場を迎える小説が多く存在する。ミステリは特にそうである。そういうものは、大抵の場合、ネタバレによって楽しみを大きく損なってしまう。最後の山が平地になってしまうと、もう楽しみはあまり残っていないからだ。
いつも思うことは、彼の作品は全文字楽しめるということだ。最初から最後まで。結末だけが小説ではないのだ。彼の作品は、ただずっと面白い。ネタバレをされてもビクともしない程強固な、文自体の面白さがある。
この本を読んでいる最中、読者は、山の頂上を目指して斜面を登っていくのではない。読者は、ひたすらに平坦な道を歩く。ただ、道沿いには異国情緒溢れた街並みや、人や、音楽が溢れている。謎に満ちた出来事や言葉から、考え、悟る。全てが平坦な道沿いに詰まっている。
- 作者: アントニオタブッキ,Antonio Tabucchi,須賀敦子
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1996/08
- メディア: 新書
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川端康成『古都』
移りゆく季節の中で、木々の姿も京都の色も人の心も変化していく。由緒ある祭は晴れやかに京都の街を照らす。灯りと共に心も揺らめいていた。
主人公の千重子は捨て子であった。裕福な家庭に拾われ、あまり苦労することなく暮らしていた。祇園祭。千重子は出会ってしまう。生き別れた双子の片割れに。そこには、身分の差があった。
着物や帯の柄。身近ではないそれらは、この本の世界では中心近くに存在する。京都の伝統的な祭が私達を京都へと誘う。祭の説明が詳しく書かれていて、何も知らなくても祭の雰囲気漂う人混みを歩くことが出来る。
ゆらゆらと揺らめく文体で、身体の透明度が増したような地に足付かない感覚だった。花の色も美しかったが、杉林の緑色と茶色が清々しく力強くかった。
美は刹那の中にあった。
住野よる『君の膵臓をたべたい』
作品名を見たときから気になっていた。あらすじを読んでみた。膵臓、病気、君の膵臓をたべたい。読まなくてもいいかな、と思った。文庫版が発売され、買った、読んだ。読まないと決めた時の僕は、もう10ページ読んで出直してきた方がいい。
「肝臓が悪かったら肝臓を食べて、胃が悪かったら胃を食べてって、そうしたら病気が治るって信じられてたらしいよ。だから私は、君の膵臓を食べたい」
こんな台詞が読み始めて数ページ目にあるなんて、思いもよらなかった。もっともっと最後にポツンと一言発せられると思っていた。物事が、点同士が線で結ばれるように、繋がっていく様が楽しめた。
思わぬ伏線回収はサスペンスのよう。しかししっかりと甘い恋愛は青春小説を感じさせる。
闇の中で目隠しと手錠をつけられて、舌だけでアイスを探し回るような小説ではなく、ファミレスのいちごパフェを細長いスプーンで食べるような恋愛小説だった。いちごはちょっと酸っぱかったけれど。
正直に言うと、売れた理由がよくわかる、分かりやすい小説だった。頭を使わなくても一本道を進んでいけば、出来事が起こるのだ。テーマパークの乗り物のよう。出来事を選んで出てくる当然の気持ちを述べれば、当たり外れなのない感想を言える。友達とも共有しやすい。
大きな出来事のある物語は、感想が一点、一種類になってしまいがちである。しかし現実、そんな出来事は人生にあまりない。ノーベル賞は取れないし、蒸気機関は発明出来ない。
僕は小さな出来事を積み重ねていく小説が好きだ。より人生らしくて、人間味に溢れてる気がする。
でも、こんな経験は僕にはずっと出来ないだろう。小説の中でしか雲は食べれない。人生らしからぬ経験を。
夏目漱石『それから』
主人公の代助は親から金を貰い働かずに生活をしていた。知識人であった。いつも本を読み、友の翻訳の頼みがあれば相談に乗った。金も時間も自由もあった。意思はなかった。
あらすじを意識せず本文へ入った。この作品は裏表紙、あらすじにある通りの「悲劇」である。坂の上から石が転がっていく様、終端の崖から落ちていく様をありありと見せつけられた。私は読書中、転がり落ちる石だった。
そこには、石だからこそ見える社会があった。働いていない身分は社会に属していない分社会を鳥瞰できる。社会で「まとも」な私たち。主人公は私たちをどこか見下している。彼の考えは正しく「まとも」であるのに、私たちも「まとも」である。本当のまともはどこにあるのだろう。彼は葛藤しない。彼はまともであるから。
自分のまともを突き通すのがこの作品である。主人公にイラつくことも多かったが共感する部分も多かった。仄かに漂う雰囲気を、恋の色を、厳しい時代を感じられた。
夏目漱石前期三部作の真中の作品で、真中から読んでしまったが、解説には前後作の繋がりはあまり無いと書いてあったし、単体で楽しめたので良しとしよう。
ふかわりょうさんの新聞記事を読んで
ツイッターで見かけた、ふかわりょうさんの新聞記事「いいねなんて、いらない。」、カメラを置いていく理由として
撮ることに気を取られて、旅を楽しめなくなっていることに気付いたから。
(「いいねなんて、いらない」
2017.8.19 東京新聞より)
私もそう思ったことがあることを思い出した。
国立新美術館のミュシャ展に足を運んだときのことだ。基本的に絵は撮影禁止で、立ち止まってゆっくりと作品を楽しむ作りになっていた。一部、撮影可能な絵があった。その絵の前では、より長く立ち止まりレンズ越しに絵を見て、いかに綺麗に写真に収めるかに集中している人が多かったように感じた。巨大な実物の目の前の絵を見る数分間、家に帰って写真のなかの絵を見る数分間、どちらを大切にするべきなのだろうか。なんだか勿体無いことしてる人達だな、と思った。
最近大切にしていることは、場面の特殊性を尊重することだ。美術館に行くのは絵を見るためだ。写真を撮るよりも絵を見ることを優先する。美術館には、素晴らしき絵があるという特殊性がある。観光地に行けばそこでしか見れないもの、食べられないものを見たい食べたい。友人と何処かへ行くなら、LINEを返してtwitterを見るのではなく、友人と会話していたい。当たり前の考えなのに、私もいまいち実行できていないように思う。
「今しなくていい」と思うことをしないよう心がけることで、貴重な時間、貴重な体験をそっくりそのまま原寸大で捉えることが出来ると思う。
切り取ってよ、一瞬の光を
写真機は要らないわ
五感を持ってお出で
(東京事変「閃光少女」より)
M.A. アストゥリアス 『グアテマラ伝説集』
「ノーベル文学賞」と検索して、受賞者一覧を見てみる。そのうちから小説部門での受賞者を見ていく。数人をピックアップして作品を調べる。その内の一冊が『グアテマラ伝説集』だった。
内容はマヤ神話に基づいた伝説が、導入部のグアテマラと共に、ノーベル文学賞並の緻密さで色彩豊かに描かれている。
- グアテマラ
- 「金の皮膚」の回想
<伝説集>
- 「火山」の伝説
- 「長角獣」の伝説
- 「刺青女」の伝説
- 「大帽子の男」の伝説
- 「花咲く地」の財宝の伝説
- 春嵐の妖術師たち
- ククルカン —羽毛に覆われた蛇
導入と各伝説はとても良かった。表現の一つ一つに驚き、古代マヤ文明の空気、自然、人々が感じられた。
森は海の延長のように大地にくいこんでいた。流れる大気は、光が明暗をつくっている森の表面では青く透きとおり、内部では果実の緑に澄んでいた。
(『「火山」の伝説』より)
ククルカンの物語だけ、内容がさっぱり掴めず、わけがわからなかった。戯曲の形式を取って儀式を行っているのはわかった。でも、半分が「クワック」や「朝から昼、昼から夜、夜から朝」や「わたしは太陽のごときもの!」などの意味深な掛け声で満たされていると「ほーん。」ってなる。
戯曲じゃなければ、この人の文章はまた読みたい。マヤ文明に浸りたくなったら他の本にも手を出してみようと思う。